名残の薔薇 第2回:岩村透、あるいは花の便り

 2008年くらいから、一つの本をずっと書いてきた。2019年春に脱稿してみればすでに10年以上、総計120万文字の本。原稿用紙世代だけに、計3000枚と言い直さないと自分で実感が沸かないが、よくも最後まで書けたと今になると思う。原稿からゲラ、刊行に至るまでにさらに2年もかかった書物であった。
 

      今橋映子『近代日本の美術思想——美術批評家・岩村透とその時代』上下巻、白水社、2021年

            https://eiko-imahashi.jp/books/kindainihon-01/

            https://eiko-imahashi.jp/books/kindainihon-02/

 研究書であったからもちろん、途上の困難は色々とあった。が、120万文字を綴る意欲と愛着を失わずにいられたのは、この書物の主人公・岩村透という人物の魅力と、彼が次々と私の眼前に拓いてくれる明治大正期文化の多様な地平のお陰であった。岩村透(1870-1917)は、明治大正期の美術批評家——と書けばたやすいが、それだけでない。まず彼は男爵であった。そして東京美術学校(現東京藝術大学)の初代西洋美術史教授、つまり美術史家であり、美術雑誌や新聞で活躍する批評家、ジャーナリストであった。美術界全体の大同団結を謳い、返す刀で政府に物申す美術行政家でもあった。拙著は、それだけの活動と著書を残した彼が「なぜ忘れられたのか」、を中心テーマとしている。拙著では、絵画のみならず工芸、装飾美術、建築、文学、音楽にまで及ぶ岩村透の思索と活動の総体を、描こうとした。

 拙著刊行後も普通は(予想通り)、彼の名前を出しても相変わらず「?」という反応しか返ってこない。「実は黒田清輝の同僚で友人、森鷗外の知友でもあったんです」と言うと「へえ、そうなの?」とようやく興味を持ってもらえるくらいのところだろうか。持病の糖尿病のため47歳で早逝したことがその「忘却」の原因であると言われたが、どうもそこには知られざる理由があることが、研究の途上で分かってきた。つまり大逆事件前後の言論統制の時代、政府に然るべき抗議を堂々と書いた自由思想家の彼は、男爵ゆえに煙たがられ、体よく美校教授の座を奪われ、その混乱の最中に持病で亡くなったというのが本当の理由だったのである。研究期間が10年以上にわたった理由の一つも、この恐るべき事実の裏を取る必要もあったからだ。 
 岩村透は、となれば全く失意のうちに亡くなったのかと思われがちだが、実はそうではなかった。もとより岩村は男爵家の生まれであり、十代でアメリカに留学した二言語使用者で、性格は捌けて人付き合いも良く、お喋り。どちらかというと率直すぎて口の悪い、けれども誠実な人柄——であったらしい。人々の座談の中に入るとひときわ目立ってしゃべり、皆を先導するようなタイプの人間であったようだ。

 ところが岩村の生涯の同志、美術編集者の坂井犀水(1871-1940)は、雑誌上での美術批評や美術行政の運動を岩村と共にし、彼を完璧にサポートする中で、他の人々とはまったく異なる岩村の姿を捉えていた。犀水は岩村透の人柄を称して、「遠大なる理想家、熱心な経綸家として高潔なる志士の如き心事を有(も)ち、洒脱なる禅僧の如き境涯に往したる先生の真面目は余り知らせて居(を)らぬ」[註1]と言うのである。岩村という著述家は、あれだけ美術思想の啓蒙家として多くの著作をものしながら、自分について語ることはほとんどない人であった。犀水のようにごく親しい人々の回想記を丁寧に読むと、哀惜の中に鮮やかな故人の姿が蘇る。犀水に拠れば岩村は、実は大変に几帳面で細心、こまやかな心遣いをする「洒脱なる禅僧」のような相貌をもっていたという。とりわけ、宿痾にさいなまれ、しかも仕事上も厳しい立場に置かれた最晩年、糖尿病についてのあらゆる海外文献を読み込んで自分の病状の行く末を悟った岩村は、粛々と自分の最期の旅支度を進めた。東京から遠く離れた三浦半島の本瑞寺というお寺に、岩村の墓所はある。

 神奈川県三浦半島三崎は、暖かいイタリアの地を思わせる土地柄を気に入って、岩村が自ら土地を購入し、自分で別荘を設計し、そこが終焉の地となった。今でこそ品川から京急で一時間、マグロが美味しい観光地だが、当時は汽車と船を乗り継いでようやく辿り着くような場所。1917年に入り春頃からぐんぐん衰えていく彼の健康は、身近な友人たちを心配させたものの、簡単に往き来はかなわない。坂井犀水ですら、その最期(8月17日)に立ち会うことはできなかった。その犀水が書き残した回想に、はっと読む者の心を打つ一節がある——。

  直接の告別は出来なかつたが、奥様に私への最後のお言伝は、「薔薇が今年はお名残に咲いて呉れて嬉しうご
 ざいます」ということであつた。花を愛する私に取つては喜ばしい言伝であって、又友情が溢れて居たと同時 
 に、大往生に際して残された花の便りは、大悟の様もしのばれて美しい極みであつた。[註2]

 岩村透は、その厳しい晩年の病魔と事件にも拘わらず、まさしく明鏡止水の心境で、穏やかに死に向き合ったのだ——と私は確信した。生前岩村は花をこよなく愛し、自分の娘たちにもそれぞれ花の名前を付け、夢のようにけぶる薔薇の水彩画を友人・和田英作に贈った。死の床にあってなお、岩村は薔薇に命を頂いている。それを友人犀水に伝える妻・蝦夷子の心持ちも、その花の便りを故人の「大悟」の境地と即座に受け取る犀水も、ここにはひとの美しい心のやりとりしか存在しない。
 
 私はこのエピソードをいつかどこかで書こうと思って、実は120万文字には入れずに心に温めていた。その大事なエピソードが、コロナ禍の毎日の散歩で「名残の薔薇」を偶然にも見つけたその瞬間、またたくまに蘇り、心の映像とオーバーラップしたのである。晩秋の青空に私が見上げるその花は、生命の横溢というより、未だ失わないエネルギーを十分に使って咲いている明るい美しさがあった。そしてその名残の薔薇は、私に一つの決意をもたらしてくれた。120万字のその先に、なお咲いている花々を後に伝えよう、伝えておくべきであるという決意を——。

 本ブログ「名残の薔薇」は、「継承のための学問・芸術論」を綴るものである。大著を上梓した後なら普通、人はそれを「落ち穂拾い」と呼ぶだろう。けれどもそれは違う——構想30年、執筆10年の研究を経て、120万文字にはなお収まらなかった「名残の薔薇」が咲いていることを私は知っている。それは未来の文学芸術研究で誰かに継いでほしい、深めてほしい、必ずやそこに実りがあると確信できるテーマやアプローチである。その意味では、岩村本に限る話題でもない。面白い、感興を誘う話題もあろう、人文研究とは何か、比較研究とは何かについての話題もあるだろう、あるいは未知の書物や不在の展覧会を夢見る時間もあるだろう。あまりに専門的すぎて読者には苦笑を誘うような話題もあるかもしれない。けれどもそれが私には「名残の薔薇」と確信できるなら、信じるままに書いてみたいと思うのである。

                                   2023年8月17日 岩村透の命日に

 
[註1]坂井犀水「岩村透先生の一側面」『読売新聞』1917年8月26日朝刊、p.7.
[註2]坂井犀水「思ひ出づるまゝに」『岩村透男追憶集』所収、私家本、1933 年 8 月、p.60. 
    なお文中の「取って」は原文のママ。

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