展評・書評:第2回 二人展に見る「必然的共有」——本橋成一とロベール・ドアノー

 「本橋成一とロベール・ドアノー——交差する物語」(東京都写真美術館)——最初に、展覧会チラシでこの二人の名前が目に入ったとき、「あ!」という気持ちと「えっと、どうして?」という気持ちが同時に来た。確かにルポルタージュ写真というジャンルに興味があれば知らぬ人はいない大事な名前である。が、例えば「木村伊兵衛とカルティエ=ブレッソン」(同館、2009年)のように当然のコラボレーションとは、ちょっと趣が違う。一体何を見せてもらえるのだろうか、という期待で会場に向かう。
https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-4534.html

 一言で言えば、「気持ちの良い」展覧会である。寡聞にして、本橋成一(1940-)がドアノーに私淑し、面会の機会も得ながら飛行機のアクシデントでついにかなわなかった、というエピソードを知らなかった。ただそのエピソードを知らずとも、この会場のゆるやかな構成によって、「二人展」だからこその面白みを感じつつ、作品鑑賞することができる。展覧会カタログ(山田裕理執筆・編集、平凡社、2023年)は紙の質にも拘って品質の高いプリントを見ることができるが、展覧会場だからこその迫力は、中間地点の展開部だ。劇場、サーカス、市場、屠殺場など、二人の写真家に共通するテーマの写真が、ワインレッドの壁に所狭しと展開しているのだが、左から本橋/右からドアノーと並べられた写真群が、中央あたりで「交差」する仕掛けになっていて、その交差がまたいかにも自然なことに、本当に驚かされる。
 一方では、原発事故があったチェルノービリ村に暮らす人々を撮った本橋写真、パリ郊外の現代的造形をカラー写真で撮ったドアノー写真など、個性に立脚したテーマに関しては別立てで展開されており、だからこそじっくりと鑑賞することが出来た。
 
 本橋やドアノーの写真ジャンルは「ヒューマニスティック・フォトグラフィー」に分類されるのだろうが、思い出されるのは戦後1954年に日本にも巡回した有名な「人間写真」展(1955-1962年、世界巡回)である。写真家エドワード・スタイケンが「世界中」の写真家たちの200万点以上の写真から、「誕生、愛、祭り、信仰、死」など共通のテーマのもとに独自に編集した展覧会である。戦禍の混乱から立ち上がろうとする時代において、人類の相互理解や平和を祈念する理想に共鳴する人々で溢れたと伝えられている。全世界38カ所を巡回した。しかし現代の写真研究においては、この「人間写真」展の企画の問題性は色々と指摘されている。その最たる点は、「人類共通の」というスローガンのもろさ、おそらく西欧的価値観から導き出される「普遍的価値」についての問い直しだろう(cf. 拙著『フォト・リテラシー』中公新書、2008年、pp.165-175)。従って写真ジャンルではよく企画される「二人展」の難しさは、最初から存在している。

 だが今回、繊細に配慮された学芸の力によって、筆者はこの二人展を「気持ちよく」見ることができた。どうしてだろうと思いつつ、写真美術館最上階の図書室に上がっていく。図書室で無料配布されている「関連図書リスト」も大変よく出来ていて、しかも本橋の写真集はほぼ全て開架で供されており、じっくり読むことができる。改めて思いを致すのは、本橋の取材に一貫している根本的姿勢である。本橋は、『炭鉱(ヤマ)』(1968年)では廃坑「後」の労働者の厳しい環境を、『屠場(とば)』(2011年)でもまた、一般には公開されない作業場の日常を、『ナージャの村』(1998年)では「放射能でなく、いのち」を慈しんで撮る。そこに生きざるを得ない人間の姿、それでも「働く」「暮らしていく」ことの意味が、ひたひたと胸に迫ってくるのである。
 私たちは、昨年(2022)以来のロシアのウクライナ侵攻の事態の中でいっそう、それを感じてきたのではないだろうか。振り返ってみればドアノー自身、〈パリ郊外〉に生涯根付いて暮らし、そこに愛着をもちつつも、どうしようもなく不条理な人間的条件を、見つめ続けてきた。

 となれば、ドアノーと本橋が、中心ではなく周縁の事物に惹かれて「盛り場」「屠場」「サーカス」などを撮るとき、それは「類似的」「普遍的」なテーマではなく、世界に対する問題意識の偶然的、必然的共有でもあると捉えた方が良いだろう。もちろん写真家・本橋が、写真家・ドアノーへの限りない敬愛の情を持ち続けるからこそのアングルや撮影方法もあるだろう。けれどもそれを超えて、不条理な世界を生きること、そこにしぶとく暮らす人々への、二人の敬意と愛情が、この静かな展覧会には溢れている。

『毎日新聞』掲載記事(2023年5月30日)——メッセージと、関連情報を。

  取材協力記事=高橋咲子記者「そこが聞きたい——人文系博士課程の今/新しい価値の創造担う」
   (『毎日新聞』2023年5月30日(火)朝刊、p.9)
   ( ウェブ有料記事:https://mainichi.jp/articles/20230530/ddm/005/070/006000c

 理系研究がいずれも、社会の役に立つというイメージは皆さんお持ちだと思いますし、だからこそ理系博士の社会的価値は高いことは自明でしょう。政府は2023年4月から、企業の基礎研究や応用研究に博士号取得者を雇用した場合に、法人税額を優遇する新しい政策を打ち出しましたが、これもそうした価値観を反映していると思います。
 対して人文学研究は、同じ「文系」でも社会学研究と異なって、一般的には「社会的利益」に結びつかないと判断され、博士号取得者への評価もほとんどされないのが現状です。

それでは人文系研究で博士号を取る過程で、一体何が得られるのか——その問いに、私は次のように改めて答えたいと思います。
——人文系博士課程ではほとんど、個人研究が主体です。博士課程に進んだ人は、自分にとって大切なテーマ、中心的課題(セントラル・クエスチョン)を思うがまま研究することができます。そしてAIが研究の正解さえ導くのではないか、と囁かれる現在、人文系の学問にはいまだ、「人間」が研究しなくては到達しない宇宙が広がっており、古今東西の書物、手書き資料、非言語資料(音楽、美術、建築等)など、インターネット上の情報を凌駕する世界を相手にして、先行研究を渉猟し、自分の論を打ち立てる知的営為に立ち向かうことができます。人文系博士論文は、書物という形にまとまる可能性をもっていて、それを人生の新たなスタート地点として、一生、自分と自分の探求を大事にする契機を手にすることができるでしょう。その書物は何よりも、「社会」と再び繋がる何よりのツールにもなるのです。

 では人文系学問の醍醐味とは何か、社会的価値とは何か——
人文系学問は基本、「今」ではなく、「百年後」の社会に到達すべき新しい思想、哲学、言説、美的造形などを探求し、「価値づける」作業を担っていると思います。歴史的過去を探るのもまた、現在の私たちの思考を照らすためともいえます。大学は基本、「言説の問い直し」が自由にできる可能性がある数少ない場所でもあります。例えばジェンダーの多様性、SDG’Sの思考方法などは、文学・芸術が長く追求してきた、そして人文系学問がその価値を発見し、分析し、社会に発信してきた長い時間の賜とも言えるのです。

 政府や企業の方々に向けても、人文系学問がそのように「新しい価値の創造」を担っていること、それによって社会的利益を最終的に生んでいることを改めて認めて頂きたいと思っています。人文系博士課程でも、博士号に至ることができる人材は限られるだけに、博士号取得に至った者は(論文を書くという営為の中で)、高度の語学力、読解力、(何よりも)情報収集と分析力、膨大な調査経験を通じた人間力、アスリートさながらの忍耐力と目的遂行力を身につけていると、30年に及ぶ博士論文指導の経験で観察しております。その多くが大学人として巣立っていきますが、適材適所は社会の至る所にあると感じますし、そうした人材を活かして、国力、社会力を上げていく可能性を、理系人材と同様に検討して頂きたいと、心から願っています。

 最後に、関連するいくつかの情報を——

1 『毎日新聞』の記事冒頭でも紹介があった、「博士論文」特輯は、日本の学術雑誌ではほぼ
  初めての特集だと思われます。この雑誌は一般およびネット書店で購入可能です。

  東大比較文學會『比較文學研究』第108号(特輯〈博士論文〉)、すずさわ書店、2023年1月
   *詳細目次 http://www.todai-hikaku.org/pdf/HP掲載用108号詳細目次.pdf

2 東京大学比較文学比較文化研究室のサイトでは、博士論文刊行本一覧を掲載しています。
  http://fusehime.c.u-tokyo.ac.jp/graduate/theses/book_list.html (1969年〜現在)

3 なお東京大学が博士論文の刊行書を紹介している次のサイトは、人文系学問が若い世代によって
  どのように開拓されているのかを示す一例だと思いますので、ご参照頂けると幸いです。
 「東京大学ビブリオプラザーー若手研究者による著作物」
  https://www.u-tokyo.ac.jp/biblioplaza/ja/fy2022.html


                          (2023年5月31日) 東京大学大学院教授・今橋映子

名残の薔薇:はじめに

 2020年春、新型コロナウイルスの流行と共に、私たちの日常生活は大きな変化を余儀なくされた。2月の半ば、「先生方のどなたも取り残すことなく、オンライン授業を4月から開始します!」という驚くべき宣言と共に配布された大量のマニュアルを握りしめ、オンライン化の波に揺られるまま、春から夏が過ぎていった。
 東京は、いわゆる「ロックダウン」こそ至らなかったものの、外国人観光客もビジネスマンも学生たちも激減した山手線に乗ると、穏やかな日差しが届く車内はしんと静まりかえってうたたねをする乗客も多く、なぜか中学高校時代の東京に後戻りしたような錯覚に囚われる。

 授業は自宅、昼食も自宅、そして夕食も・・・東京郊外に住んで「通勤族」の一人だった自分の日常に、ほどなく「散歩という新しい習慣」が生まれてくる。どこに行くのでもなく、20分ほど離れた別の駅まであえて歩いて、ちょっとした買い物やらをすませて帰ってくる日常。それまで、確かしょぼけたような感じだったはずの団子屋が、季節の餅菓子やお稲荷、赤飯などを盛大棚に並べて大盛況である。郊外族はとかく、毎日の思考が都区内の職場に向かっているので、自分の「地元」を無視して生きているし、実はあまり愛着ももっていない。ところがコロナ禍で俄然、自分は「今どこに生きているのか、これからどこに生きるべきなのか」という深い問いが沸いてくるのである。おそらくこの3年ほど、マスコミに報じられる「都会から地方への移住」もまた、そうした各自の問いと関連付いているのだろうし、「移住」による地方活性という目論見とも連動しているのだろう。

 私は3歳から東京郊外で育って、半世紀以上住み続けてきた。団地から住宅地へというわずかな変化はあったものの、東京郊外の変遷を見届けてきたつもりだった。けれども都会勤めの三十年の間に、どことなくやはり廃れてきた住宅街は、コロナ禍の散歩で改めて目に入ってきた今の姿である。一方で歩き続けてみれば、不思議に愛着(あるいは執着?)もあることに気づいてくる。何よりも新興住宅地がいまや「新興」でなく、それぞれの家も古びて、それだけに一軒一軒を「住みなす」個性がにじみ出ているのを、のんびり歩きながら観察するのは、やはり愉しい。我が家の狭い庭の、やりつけない庭仕事をどのくらい「ちゃんと」やるべきかと思案していたのだが、散歩して何十軒という家とお庭を「拝見」すれば、それこそ多種多様、みんな好き勝手にご機嫌に住みなしているのが分かる——そうした日常こそが最上の贅沢であることを、とりわけ2011年と2020年からの厄災で、私たちは会得してきたのかもしれない。

 コロナ禍のマスク生活にも、毎日何時間にも及ぶオンライン授業と会議にもようやく慣れてきて、秋も深まったある日のこと——散歩の途中で、しかも我が家から一つ角を曲がっただけの近所の家に、薔薇の花が「まだ」咲き続けていることに急に気づいた。
園芸には詳しくないのだが、秋に咲く薔薇でなく、春から咲き続けているその同じ木である。背高く3メートル近くあるので気づきにくいのだが、確かにまだまだ上の方で薔薇が咲き続けている。秋の陽が傾いて、かすかな寒風に吹かれながら健気に咲いているのである——「名残の薔薇」、そう思った途端、私の脳裏に鮮明に浮かぶ、ある名文章があった。(つづく)